聖宝理源大師
 尊師は、天智天皇の後胤(こういん)葛声王(かどなおう)の御子として、天長9年(832)に誕生され、16歳のとき、弘法大師の高弟、真雅僧正(しんがそうじょう)について出家得度し、聖宝(しょうぼう)と名乗りました。
 役行者没後、百数十年の後、大峯山は悪者や毒蛇などが現れて入峯修行の人々を大いに悩まし、登山する人も絶え絶えになりました。尊師は先人、役行者の教えと行跡(ぎょうせき)が絶えることを憂いて大峯に登り、悪者、毒蛇の類を真言の法力により退去させ、山を再開したのです。また大峯山の奥の院である小篠(おざさ)の宿(龍泉寺所有)において行を重ね、神仏を勧請(かんじょう)して、その力と教えに起(た)って、役行者に発するところの幾多の修法(しゅほう)に従い、修験道を組織立て、役行者とその教えを生かしました。
 大峯山を再開すると共に、その根本道場としてふもとの龍泉寺も再興しました。ついでなおも修法を積み、修験道の教儀を確立し、名実共に修験道中興の祖となったのです。ゆえに、この人が現れなかったら現在の大峯山の隆盛も修験道の興隆も生かされなかったことでしょう。
 貞観16年(874)京都の東、醍醐山に醍醐寺を開創し、真言宗醍醐派の基を固めると共に、当山派修験の総本山として、わが国有数の法城を礎(きず)いたことは有名です。宝永4年(1707)正月、東山天皇より理源大師(りげんだいし)の諡号(しごう)を賜り、聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし)となりました。修験道の教えの中には、尊師による真言密教の教えが織り込まれています。